STORY

創業ストーリー

0
1979S.54

東京都台東区浅草で生まれる。

1
1980S.55

若かりし頃の具志堅 用高氏に抱かれ記念写真。

2
1981S.56

浅草、浅草寺の三社祭にて。

3
1982S.57

母の都合により東京都から
新潟市(現在の新潟市中央区)に引っ越す。

4
1983S.58

クリスマスシーズンにバイクに乗ったサンタさんを目撃し、なぜサンタさんはソリに乗ってないのか?本当にサンタさんは存在するのか?と母親に問い掛ける。
小児ぜんそくの為、病院のすぐ隣のアパートに住んでいた。この頃は、本当に病弱で、体中、点滴の針の跡が多かった。

5
1984S.59

保育園の年長児のお別れ遠足にて。

6
1985S.60

新潟市中央区にある、新潟市立新潟小学校に入学。
好奇心旺盛で、怪我を恐れずに、何でもやってみる子供時代に突入。

7
1987S.62

公園のゴンドラタイプのブランコを動かしていたところ、支柱とゴンドラの間に頭が挟まり、流血。必死に隠すため、公園の水道で頭を洗い、手で押さえて止血。
小学校2年生から、珠算教室に通い始める。
写真に写っている犬は、当時飼っていたメス犬「ポピー」

8
1988S.63

ビックリマンやエアーガンに興味を持ち始める。
写真は、新発田駐屯地の記念式典において、中隊長室にて記念写真。

9
1989H.01

友人と、台風の日に、荒れた日本海に遊びに行き、高波にのまれ、テトラポッドの隙間に落ち、気を失う(今でもその時の事は記憶にない)。偶然にも、次の高波が来る前に意識を取り戻し、慌てて陸に上がり、事なきを得た。その時友人は、「もう死んだと思った」とコメント。その後、全身びしょ濡れで家に帰るわけにも行かず、服が乾くまで自転車を漕ぎ続け、濡れた服を乾燥させる。
当時、毎日のように自転車でどこにでも行く少年だった為、交差点で車にはねられ、体が空中を飛んだり、交差点で待っている時に、バスの内輪差で足の指をひかれたり、色々な事故にあったが、その時にいつも思う事が「怪我だけで良かった」「死ななくて良かった」と、当時から物凄いポジティブな性格だった。

10
1990H.02

小学校高学年頃から、夏休みの宿題をいかに効率よく終わらせ、宿題を気にせずに遊ぶにはどうしたらいいのか?を真剣に考える。その結果、考え出した方法が、やらなければいけない宿題を全科目1ページずつカウントし、合計ページ数を終わらせたい日数で割り、1日あたり、何ページやれば目標達成できるのか?を考え、実行し、達成できた時の爽快感が楽しくてしょうがなかった。
この頃、珠算教室で暗算をやっていたことから、その練習として、買い物に行った時のレジに表示される数字を見て、レジと同じスピードで暗算し、合計金額が合っているかを見るのが楽しみだった。しかし、1989年4月から、消費税3%が施行され、外税が増えた事により、合計金額までは出せても、消費税までは暗算できず、1989年をもって、レジと計算を競う遊びは出来なくなった。

11
1991H.03

通っていた塾の先生からのお誘いで、中高一貫教育である、私立新潟第一中学校を受験するが、ほとんど受験対策をおこなっていなかったため、不合格。
受験対策をしていなかったのが原因だと分かっているのに、何故かとても悔しい気持ちになり、高校受験の時は早めに受験対策が必要なんだと心に決める。
小学校6年生の時に、珠算1級に合格し、珠算教室を辞める。

12
1992H.04

新潟市中央区にある、新潟市立寄居中学校に入学。
小学校までは、小児ぜんそくで体が弱く、体力も無かったため、中学1年生のタイミングで、何故か急に筋トレに目覚める。ホームセンターのトレーニンググッズ売り場で、鉄アレイをお年玉で購入し、トレーニングを開始する。

13
1993H.05

「自分は“小児ぜんそく”で同級生よりも体力が無いんだ」という意識があったため、部活動に入ってもついて行けないと判断し、特定の部活動には所属せず、楽しそうな部活動を見つけて、仲間に入れてもらうようなスタイルで、中学校時代を過ごす。
サバイバルゲームと、海釣り、サイクリングにはまり、天候に関係なく、外で過ごすことが多くなる。

14
1994H.06

友人と二人で、新潟から東京までの350キロを、自転車で行こう!という計画を立て、計画実行前に、母親に伝えたところ、「そんな危ないことはやるな!」と言われ断念。
高校受験に向け、勉強を開始。
高校を選定するに当たり、「高校3年間は運動系の部活動に入る!」と目標を決め、運動部に入るからには1番になりたい!でも、サッカーや野球など、幼少期からずっとやってきた同級生には、努力やセンスだけでは乗り越えられない、経験の違いがあるため、1番になれる可能性は低い。どうしたら1番になれるのか?を考えた時に、「高校からしかない部活動なら、全員スタートラインが同じだから、努力次第で1番になれるのでは?」という仮説を立て、決めたのが弓道部であった。自分の偏差値を考慮し、弓道部がある高校を探し、目標とする高校の選定をする。
この頃、中学3年生の時のクラス内で、「受験するという事は、人生の分岐点でもあるわけだから、それに向けて頑張るために、みんなで何か標語を作ろう!」という話になり、話し合いの末、完成した標語が今でも心に刻まれている。

たった一度しかない人生を
たった一人しかない自分を
本当に輝かし出さなかったら
人間生まれてきた甲斐が無いじゃないか

この標語は、今でも自分の人生の分岐点にあたった時、思い返す言葉になっている。
更に、自分の物事の考え方が大きく変わった、担任の先生からの言葉がある。
「受験勉強に費やす時間は、今後皆さんが生きていく長い人生で考えると、本当にわずかな時間です。しかし、誰もがみんな1日24時間という時間を生きてます。この時間を将来の為に意味のある1時間にするかどうかは、一人一人の努力です。
皆さん、受験に向けて精一杯頑張ってください。」
この言葉を聞いた時、今までの自分自身の時間に対する考え方が大きく変わった瞬間でもあった。

15
1995H.07

新潟市西区にある、新潟県立新潟西高等学校に入学。もちろん弓道部に入部。
本当は、新潟県立江南高等学校を受験したかったが、試験問題のレベルが難しい年と、簡単な年があり、万が一、難しい年に当たった場合、江南高校の合格ラインは厳しいとリスク回避し、新潟西高校の受験を決めたが、実際の試験問題は例年より簡単な問題が多く、やっぱり江南高校を受験すればよかった…。と後悔した。
この頃から、少しずつ、将来の人生計画について考え始める。この時、少しずつナインティナインがテレビに出る様になり、お笑い芸人になりたいと思い始める。実際に、吉本興業にNSCという、お笑い芸人を養成する学校があり、そこに連絡をして、募集要項や願書を取り寄せた。
高校1年生から、携帯代などを自分で支払って、早めに自立したいと思っていたため、人生初めてのアルバイトを開始。

16
1996H.08

夕方遅くまで部活に専念できる日々が非常に楽しく、友達にも恵まれ、楽しい高校生活を送る。当時、ダービースタリオンという競走馬を育て、レースに出すというゲームが友達の間で流行り、かなり盛り上がる。
この頃から、競馬のジョッキーに憧れ、競馬学校に電話をして募集要項を取り寄せ、母親に、「競馬の騎手になりたい!」と伝えたところ、「夢見てるんじゃない!!!」と一喝され、この流れで、「お笑い芸人になりたい!」と伝えたところ、「だから夢見てるんじゃない!!!」とさらに一喝され、もっと現実的な仕事を考えなければと思っていたが、普通のサラリーマンと言う働き方ではなく、「人から感謝される仕事」、「ありがとう!と言ってもらえる仕事」がしたい!その方が、自分自身のモチベーションが上がると思っていた矢先、阪神淡路大震災が発生、多くの自衛隊員が災害派遣で活躍しているのをテレビで見た時に、「これだ!これ以上、人の役に立つ仕事はないのでは?」と思い、自分は陸上自衛隊に入隊するという目標を立て、それに向けて、毎日のトレーニングメニューを組み立て、高校1年生の時はバスと電車で通っていた通学時間も、そういえば、中学校の時の先生に、「将来の為に意味のある1時間にするかどうかは、一人一人の努力です」と言われたな。と思い出し、屈強な自衛官になる為には、1秒も無駄に出来ない!と思い、自宅から高校までの往復32キロを、炎天下でも、雨でも、雪でも、天候に関係なく、自転車で学校まで通い、自衛官になるためのトレーニングとして、高校2年生・3年生の2年間、自転車で通い続けた。

17
1997H.09

高校入学の時に「高校からしかない部活動なら、全員スタートラインが同じだから、努力次第で1番になれるのでは?」という仮説を立てスタートした部活だったが、部員のお陰もあり、念願の弓道部の部長になることが出来た。部長になってからは、後輩のトレーニングメニューを考えたり、それを実施する事で、成長していく過程を見ていると、楽しい反面、思うように成長できない後輩をどうやったら成長できるのか?を考え、また別のやり方で教えたりを繰り返し、今思えば、この時、自然とPDCAサイクルとして回していたのかなと思う。
日々のトレーニングの成果もあり?筆記試験、身体検査などを受け、倍率4.3倍だったが、合格通知が届き一安心。

18
1998H.10

無事、3月に高校を卒業し、「ありがとう!と言ってもらえる仕事」を胸に、陸上自衛隊に入隊。
入隊先は、陸上自衛隊武山駐屯地 第309教育中隊に配属され、3か月間の自衛官としての基本教育を受ける。日々の訓練がすべて新鮮で、とても充実した教育期間であった。この3か月で学んだことは、「雨の日に屋根のある部屋で仕事が出来る有難さ」「喉が渇いたら綺麗な水が飲める有難さ」を学び、今まで18年間生きてきた考え方や、生活が、どれだけ生ぬるい物だったのかを思い知らされる。
自衛隊は、ミスをすると腕立て伏せをさせられるという習慣があるが、ある時、小銃の部品を机から床に落下させてしまった事があり、その時もやはり腕立て伏せをやる事になったが、筋トレが好きで好きでしょうがなかったため、腕立て伏せをやる時に、「お金もらって仕事中に筋トレが出来るなんて夢みたい」と思いながら、教官から「腕たせ伏せ30回!」と言われたが、ササッと終わってしまい、もう少しやりたくなってしまい、50回やってたら、教官から「お前にとって腕立て伏せは反省にならないから、やらなくていい」と言われてしまい、それ以来、腕立て伏せの反省は減ることになった。
3か月間、自衛隊法や基本教練、体力錬成を行い、3か月間の成績優秀者として、約100名中から1名だけが選ばれる、「中隊長賞」を頂き、無事、3か月の前期教育が終わる。

前期教育で3か月間、一緒に苦楽を共にした同期とも涙の別れとなったが、この時も、一つ新たに感じた事があった。それは、「3か月前は、どこの誰だか分からない人達が、たった3か月間で、なぜ涙まで流して、別れを惜しむ感情になれるのか?」という事だった。もちろん自分自身も、みんなと同じように涙したが、なぜそのような感情になるんだろう?と、色々と考えるうちに、一つ分かったことがあった。
「苦楽、寝食を共にした人々の間には、3か月という短い期間でも強い絆が生まれる」
という事だった。
3月27日から始まった前期教育もあっという間に3か月が過ぎた。
「中隊長賞」を頂けたことで、7月から始まる後期教育の希望職種と配属先を自由に決める事ができたため、東京都立川市にある、東立川駐屯地(当時の職種は施設科)に決め、配属が決まった。
ここで面白いエピソードがある。
配属先の東立川駐屯地に到着し、武山駐屯地から届いた荷物を降ろしていた先輩隊員が、自分のバッグを持ち上げようとしたときに、「エッ!なんだこれ!」と発したので、その声の方を見ると、「このバッグ、床に貼りついてる!なぜだ?!」と言っている姿をみて、思い出した。「バッグの中には、訓練の空いた時間に筋トレをするため、25キロのダンベルをバッグの中に入れていたんだ!」と。
後になって笑い話になったが、当時の話を聞くと、「お前のバッグだけボルトで止めてあるのかと思った」という面白いエピソードがある。
後期教育では、専門的な業務を遂行するための訓練を受けるため、ここではあまり詳しく書くことは出来ないが、ずっとクリアしたかった、体力検定1級を取ることができ、とても有意義な教育期間を過ごすことが出来た。
ありがたいことに、後期教育でも「中隊長賞」を頂く事ができた。
自分の中では、前期教育・後期教育の両方で「中隊長賞」を頂けた事は、これから始まる自衛隊生活において、一つの自信とモチベーションとなった。

19
1999H.11

測量士補の試験に合格。
高校生の時からずっとやりたかった、総合格闘技修斗を習い始め、複数の大会に出場。
高校生の時に少しだけやっていた、アームレスリングを再開。週1回、アームレスリング道場に通い、ライトハンド65㎏級で東京都10位に入る。

20
2000H.12

朝霞駐屯地で大型免許を取得し、駐屯地に戻った直後、「佐藤!昇任試験の教育が始まってるぞ!」と告げられ、教育に参加。
測量士補の資格を持っていると、通常よりも早く昇任試験が受けられる制度があるため、同期よりも一足先に昇任試験(技術陸曹)を受ける教育に参加する事になった。
過去に出題された問題を見ていたが、一般教養の問題は高校卒業後2年しかたってないため、比較的容易に解けたが、やはり、自衛隊法など、新たに覚えなければいけない内容も多かった。
しかし、ここで、小学校の時の夏休みの宿題解決法を活用!
「覚えなければいけない内容を、1ページずつカウントし、出た合計ページ数を、残り日数で割り、1日あたり、何ページ覚えていけば全て覚えられるのか?」を実践した所、なんとか試験日までに覚えることができ、面接も少し緊張はしたが、元々人と話すことが好きな性格の為、試験当日は自分の全てを出し尽くすことが出来た。
試験結果は、無事合格!
今思い返すと、昇任試験(技術陸曹)の試験合格の知らせは、自衛隊生活で、最高に嬉しい瞬間だったと思う。

21
2001H.13

昇任試験に合格すると、富士山の麓にある、板妻駐屯地(第三陸曹教育隊)で超厳しい、過酷な訓練を受ける事となる。真冬の1月の富士山での訓練。あまりにも寒くて震えていると「震えるな!」と言われ、急げと言われて走ると「走るな!」と言われ、教育訓練なので、普通では考えられない、理不尽な事や罵声が多々起きるが、それも段々と楽しめるようになるのが、人間の不思議な所。あまりにも厳しかったため、カレンダーに、毎日×を付けて、残り何日とカウントしていた。
3か月間、この訓練を受け、毎日のように「辞めたい奴は辞めてもいいんだぞ!」と言われ、本当にその場で辞める同期もいて驚いた事もある。
そして、毎日の様に、富士山の麓にある、東富士演習場で訓練を行い、3か月後に感じたことは「富士山は遠くから見る物」という事。
今でも富士山を見ると、この当時の事を思い出す。
しかし、この訓練で、二つ学ぶ事があった。
「人間は極限に近づくと本当の性格が出る」
「罵声は人を成長させるものではなくやる気を削ぐものである」
ここで学んだ二つの事は、後の会社経営に非常に役立つものとなった。
また、この訓練の影響により、左膝十字靱帯損傷(剥離)を発症し、長時間歩いたり、走ったりすると膝が痛むようになる。

22
2002H.14

気付かずに飲んだコーヒー牛乳が腐っていて、40度の高熱に襲われ、意識朦朧になる。
寝込んでいたところ、40度の高熱に襲われいるにも関わらず、自衛隊内の駅伝競走があり、上司から「佐藤!出れるだろ?」と言われ、顔面蒼白で4キロの駅伝競走に出走。
無事、次のランナーに襷をつなぎ、ゴール後、「お疲れさん!寝ていいよ!」と言われ、事なきを得た。その後、数日後に復活!

23
2003H.15

人生初めてのデジタルカメラ(300万画素)を購入する。
当時、フィルムカメラは現像コストが掛かるというネガティブな印象を持っていたため、デジタルカメラは、確認してから印刷できる非常に画期的な物として、魅力を感じた。

24
2005H.17

デジタルカメラで撮影していて、毎回疑問に思う事があった。 「なんとなく綺麗に撮れない」という事だった。 なぜ綺麗に撮れないのか疑問に思いながらも、ふと、立川駅前にあるビックカメラ立川店のカメラ書籍コーナーに立ち寄った時のことだった。
風景の写真集があり、何気なく手に取り、見ていると、どの写真も当然ながら綺麗な写真で、自分も同じ様に撮っているのになぜなんだ…。と思ったその時!ページの右下に、小さい文字で、「使用カメラ」という文字を見つけた。そこに載っているカメラを調べると、なんと!全て一眼レフカメラで撮影した写真だという事が判明!!!
今思えば、当たり前の話ではあるが、当時は、コンパクトのデジカメと、一眼レフの違いも分からない知識レベルだったため、この事実を知った時は、かなりの衝撃だった。
この瞬間、一気にカメラと写真に対しての気持ちが高まり、極めてみたくなり、すぐに見ていた本を閉じ、同じフロアのカメラコーナーにあった、デジタル一眼レフカメラを見て、すぐにレンズとボディを購入した。
この瞬間が、自分の人生を大きく変えるターニングポイントとなった。
この頃から、撮影するために色々な所に出掛けるようになり、撮影しながら、この写真で喜んでくれる人がいたら嬉しいな。なんて思いながら、花や鳥、夜景など、色々撮影をしていた。
そんな時、小隊長から、「佐藤!幹部候補生の試験受けてみないか?」と声を掛けて頂いた。
その時は、そこまで深く考えずに、「受けます!」と言ってしまったのを今でも申し訳ないと思っている。
幹部候補生の試験勉強の為、必要な教本を買い揃え、いざ合宿に入る直前、ある事に気づいた。
「あれ?自分のやる気スイッチが入らない!」
今まで、感じたことのない、熱い気持ちが湧いてこないこの感覚。自分を試される試験やテストはとても刺激的で、自分の能力レベルを知るための指標となる為、いつもやる気に満ち溢れていた自分自身が、なぜここまで気持ちがついて来ないんだろう?
いろいろ考えた結果ある事に気付く。
7年前の「ありがとう!と言ってもらえる仕事」を胸に、陸上自衛隊に入隊したが、本心は、阪神淡路大震災でテレビに映っていた自衛官達の姿を見て自分も災害派遣に行って、困ってる人を助けたい!災害派遣に行きたい!!!と。でもその様な有事が起きなければ災害派遣に行くことが出来ないと考えること自体、なんて不謹慎なんだ。と思い、もっと身近な事で、「ありがとう!と言ってもらえる仕事」があるのではないか?と考えた時に、すぐに思いついたのが、趣味で始めていた“写真”だった。
いつも撮影しながら、「この写真を見て喜んでくれる人がいたら嬉しいな」と思っていたその気持ちこそ、もっと身近で、「ありがとう!と言ってもらえる仕事」だと、自分の心のどこかで思っていたことが、幹部候補生の試験勉強がきっかけで、自分の本心を確かめることが出来たと思っている。
この時、中学3年生の時のクラスで決めた標語を思い出し、自分を決心させることが出来た。このままでは、人生一回なのに、本当に輝いた人生を送れるのかな?と。

「たった一度しかない人生を
たった一人しかない自分を
本当に輝かし出さなかったら
人間生まれてきた甲斐が無いじゃないか」

それから、小隊長には、幹部候補生試験の辞退を申し入れ、その足で、中隊長に、「辞めます!」と伝えたところ、どうやら、自衛隊を辞めるのではなく、幹部候補生試験を諦めると勘違いされていたらしい。その後、いつ辞めることが出来ますか?と聞いた時に、自衛隊を辞める事だと分かってもらった。
少しずつ、自衛隊を辞める準備に入るが、当時、あるポストについていた為、すぐに辞めることは出来ず、後輩に声を掛け、やっとやってくれる人が見つかり、退職に向けて進められることとなった。

26
2006H.18

8年間、様々な経験や考え方を学ばせて頂き、お世話になった陸上自衛隊を退職。

27
2007H.19

カメラマンになる為、様々な写真スタジオに面接に行く。
その中で、未経験者OKのペット撮影をやっているスタジオに面接に行き、言われた言葉を今でも忘れない。
「そんなに簡単な世界じゃないから、違う仕事した方が良いよ!」
この言葉を言われた瞬間、「なぜ頑張ろうとしている若者の気持ちを摘むのか?この人だって、誰かに教えてもらったはずだし、その時の気持ちを忘れているな。」と思い、自分が会社をやった時は、やる気のある若者は採用しよう!と心に決めた瞬間でもあった。
面接時に言われた、「そんなに簡単な世界じゃないから、違う仕事した方が良いよ!」が、とても悔しく、同じ人間なんだから出来ないわけない!と、自分のやる気スイッチが入り、面接後、すぐにドッグカフェに人生初めての営業電話。
ドッグカフェで、週末にわんちゃん撮影会を開催させてもらえないか?と電話をしていると、快く開催を許可して頂けたドッグカフェがあり、そこで早速わんちゃん撮影会を開催し、1件目のお客様が代金をお支払いいただき、帰られた後
「人間やって出来ない事は無い!同じ人間なんだから、経験の差は埋まらないかもしれないが、努力の差は埋めることが出来る!」と思った。

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2008H.20

フリーのカメラマンとして、有難いことに、様々なクライアント様とお取引いただくことが出来たが、あるクライアントの社長から言われた言葉で、今後の考え方が変わる事となる。
「いつまでもフリーで居たらダメだよ。30歳までに自分で独立してやりなさい!」
この言葉を言われたときに、なんとなく期日を決めずに動いていた自分の気持ちに反省しつつ、30歳までに絶対に自分で事業を興せるようにする!と、期日を決め動き出す。
ちょうどこの頃、友人に、写真の代行販売サービスについてのビジネスモデルを話したが、「ああいうのは色々システム開発も大変だよ。プライバシーマークとかもいるからね…」と言われたが、じゃあシステム開発する環境を整えて、プライバシーマーク取れる体制にすればいいだけじゃない?と思った。
性格上、「難しい」と言われると、必ずやってやる!という気持ちになるのは、昔からだった。

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2009H.21

やる気スイッチが入ると一気に進めてしまう性格のため、言われてから1年経たずに、個人事業として、川越市にて開業。
今までほとんどやったことのない営業に苦戦の毎日。何を話したらいいのか分からず、まずはトークスクリプトを作成し、改善を重ねるが、営業マンとしての人間的な部分はどんな感じにすればいいんだろう?と考えた結果、ある一つの方法を思い付く。
「ハッピースマイルに営業してくる営業マンを全て呼んで、真似すればいいんだ!」
と考え、営業マンをドンドン呼び、自分でチェックリストを作成した。
玄関の開け方・靴の脱ぎ方・話はじめの内容・身振り手振り・会話の間合い・クロージングのタイミングなど、複数項目のリストを作成し、営業マンが帰った後、チェックリストに、感じが良いと思ったところ、ダメだったところをチェック付けていく事で、良い所、悪い所がよく分かる様になり、営業マンとしての理想像が明確になり、その結果、自分自身が、理想像になりきる事で、理想的な営業マンになれる!と考え、真似しながら、営業を開始した。
撮影をしていて一番楽しかったのが、幼稚園・保育園の撮影だった。子供達のキラキラした目、楽しい時は楽しい顔をする純粋な心を持った子供達の写真を撮っていると、自分まで元気をもらえる、とてもやりがいのある撮影だと感じていた。また、自分が撮影した写真が、20年後の結婚式に使ってもらえたら嬉しいな。なんて思っていた。
当初はなかなかうまくいかなかったが、少しずつ話を聞いてくれる保育園もあり、偶然にも、撮影に来ていいよ!と快諾して頂いた保育園があった。開業後、初めて自分一人で営業から撮影まで行うことが出来た保育園第一号でもある。
ここの園長先生との出会いが、今後の方向性を決めるきっかけとなる。
ある時、園長先生から
「壁に貼ってある写真見てどう思う?」
と聞かれ、大変そうですよね。なんて、のんきに答えたら、
「大変なんてもんじゃない。本当はやりたくないんだよね・・・。」
とお話しいただき、この瞬間、
「もしかしたら、この問題って、ここの保育園だけでなく、保育業界全体に言える事なのかも。この問題を解決出来る仕組みを作る事で、仕事をする上で大切にしている、「ありがとう!と言ってもらえる仕事」がついに実現できるかも!!!」
とメラメラと、熱い気持ちが沸き上がり、その日の夜は寝れないくらいのワクワク感に襲われ、その日のうちに、ビジネスモデルを全てノートに書き出し、サービス提供に向け動き出した。
このサービスが、写真代行販売サービス「みんなのおもいで.com」の前身である。

みんなのおもいで.comを全国展開しようと、すぐに営業開始したが、全く相手にしてもらえず、かなり苦戦した。相手にしてもらえない理由は明確で、インターネットの普及スピードと合ってないという事だった。
みんなのおもいで.comは、保育園側が写真をアップロードし、その写真を保護者の方が閲覧して購入できるサービスであるが、その全てにおいて、「インターネット」と言うのが必要不可欠であった。しかし、当時はまだまだインターネットの普及率も低く、スマートフォンが出るか出ないか位で、光回線も一部の事業所位で、ほとんどの家庭がネット回線を引いてない、または、回線を引いていてもADSL回線と言う、通信速度が遅く、写真の閲覧には不向きな時代背景があり、その状況で、ネット販売サービスの営業を開始したため、園長先生からは、「画期的なサービスで、とてもいいと思うんだけど、写真を閲覧できる保護者がほとんどいないよ」と言われ、がっかりしたのを覚えている。
その後も引き続き、営業活動を行うが、全て同じ様な反応で、ある程度営業したところで、「ネットがもう少し普及して来たら再度営業しよう」と、一旦営業を止める事に。
衝撃の出来事が起こる!
撮影に行っていた約20か所を運営する保育園の法人本部が、突然の全園閉園!突然の閉園の為、全国ニュースとなり、偶然にも社名が同じだったため、同じ会社と間違えられることもあり、ハッピースマイルは大きなダメージを受ける。

30
2010H.22

第一子長女が誕生し、病院から自宅に戻って玄関の鍵を開けようとした瞬間、携帯電話が鳴り、電話に出たところ、衝撃的な内容を伝えられる。
当時、カメラマン派遣をしていた約15か所を運営する保育園の法人本部から「今年度いっぱいで契約を終わりにしたい」という連絡が入る。
長女誕生で嬉しいはずの日々が一転、かなりまずい状況となる。その後、なんとか継続していただく方向で話が決まり、事なきを得た。
2009年、2010年と、2年連続で、合計35か所の保育園と、その法人本部からの契約打ち切りの話が起きた事で、その後の経営方針と、営業戦略を修正するきっかけになったため、ダメージは大きかったが、非常にありがたい出来事でもあった。
撮影している幼稚園の保護者様からのご要望もあったため、子供向け写真スタジオ「スタジオハッピースマイル」をオープンする。
10月オープンであったため、9月に、2日間だけスタジオ見学できるイベント開催したところ、2日間で100人以上の方が来店され、とても素晴らしいオープンを迎えることができた。

31
2011H.23

個人事業のままが良いのか、法人にした方が良いのかいろいろ調べ始める。
ある保育園の園長先生からの一言で、法人化に向けて本格的に動き出すこととなる。
ある時、園長先生から、「佐藤さん、もし今日の帰り道で車に轢かれて佐藤さんが死んでしまったら、私たちの保育園はどうなります?」と聞かれたとき、非常に無責任な事をしているなと、考えさせられる瞬間でもあった。
確かに死んでしまったら、自分の代わりに撮影に来れるスタッフがいない状況で営業してきたことを、大変申し訳なく、また、無責任な行動だと認識し、自分一人に依存しない体制=個人事業ではなく、法人化して、組織として体制を整える必要があると、法人化に向けて動き出す大きなきっかけとなった。

32
2012H.24

税理士の先生と、個人事業のままでいるか、法人成りするかの相談をしている時に、「法人にすると法人税が掛かってきますよね」と言ったところ、「法人税が払えるかどうかの心配をするなら法人にしないほうがいい!そうではなく、法人税を支払える位の会社を作るという気持ちでやらないとダメですよ!」 と言われ、それもそうだな。と思い、一気に法人成りする方向で手続きを進め、4月2日、個人事業であったハッピースマイルから、株式会社ハッピースマイルに法人成りした日である。
本当は4月1日にしたかったが、4月1日が日曜日の為、法務局が休みと言うことで、残念ながら4月2日となった。
法人成りしたタイミングで、ネット環境も以前とは変わってきたため、営業を止めていた「みんなのおもいで.com」の営業を本格的に再開させるため、近隣のアパートを借りて、初めての営業部を設立。当初3名でスタート。
アパートの為、ブレーカーのアンペア数が少なく、レーザープリンターが稼働しただけで、毎回ブレーカーが落ちる始末。営業電話中にも、ブレーカーが落ちる事があるため、当時、プリンターを動かす時は、必ず声を掛け合い、ブレーカーが落ちることを想定して業務にあたる必要があった。
ブレーカーが落ちない所で営業をしたいと日々思っていた。

33
2013H.25

特許についてアドバイスを求めるため、埼玉県産業振興公社にて相談をし、その時に偶然、「彩の国ベンチャーマーケット」というベンチャー企業を表彰するようなイベントをやっており、担当者の方から申し込んでみる?とお誘いを受ける。
気軽に、是非!と答えたが、提出書類の締め切りが翌日ということが判明し、すぐに戻り、書類作成に着手し、なんとか翌日の締め切りに間に合った。
その後、順調に書類審査、プレゼン審査を通過し、ファイナリストに残ることが出来たため、テレビ局や新聞社の取材を受け、この「彩の国ベンチャーマーケット」をきっかけに、様々な人と出会い、ハッピースマイルが大きく成長できるきっかけとなった。
また、「彩の国ベンチャーマーケット」以外にも、「第3回渋沢栄一ビジネスモデル大賞(ベンチャースピリッツ部門)」においても、ファイナリストに選出していただいた。
インターネットの普及率が一気に上がり始め、数年前に比べて「みんなのおもいで.com」の営業も順調に進むようになり、コンスタントに話を聞いてくれる園が増えているのを実感した。更に営業力を強化するため、営業スタッフを3名から7名に増員。この頃から、ホームページ経由での問い合わせも増え始める。
自衛隊の強さを表す言葉として「自己完結集団」という言葉がある。
誰にも頼らずに、何でも自分たちで完結出来る組織こそ、いかなる状況下でも戦える強い組織体制だと思っているため、会社も、「自己完結集団」が一番強いはずなので、この頃から、とにかく内製化にこだわり始める。

34
2014H.26

ついに新社屋へ引っ越し&初めての正社員の採用!
それまで別の建物だった営業部など、全ての部署が一か所で仕事が出来るようになり、そして、内製化の第一歩として、写真現像機1台目を設置。
これにより、写真のアップロードから、展示、受注、現像、現品、封入、発送のすべてのフローが自社で完結できるようになる。
これは、ハッピースマイルとして、かなり大きな一歩だったと今でも思う。
英語が出来ない状況の中、海外展開も考え、シンガポールに視察に行く!
飛行機嫌い、日本食大好き、日本語と、新潟弁しか出来ない自分にとって、シンガポールは非常にストレスのかかる視察であった。
チャンギ国際空港から乗車したタクシー運転手に、英語でガンガン話しかけられるが、車窓から景色を眺めながら、笑ってごまかすしかなかった。
そんなストレスのかかる海外視察であったが、シンガポールのロジスティクス環境や、雇用に関する情報を得ることが出来たため、今後の海外展開を考える上で、非常に有意義な時間であった。

36
2016H.28

国内にあるベンチャー企業の中から、100社だけが選ばれる、ベストベンチャー100に選出される。
二次審査では、有名企業の経営者の方に、事業の今後の展開などをお話しする時間ではあるが、話に花が咲き、二次審査にも関わらず、とても楽しい時間を過ごすことができた。
初めてのラジオCM開始。
渋谷のレコーディングスタジオで、ラジオ音源の収録を行ったが、キャスティングした子役の女の子(6歳)の仕事に対する熱心な姿勢には非常に驚いた。
大人から出される指示に対して、「はい!」と素直に受け入れ、直後に修正してくる才能に驚く。

その時完成した音源がこちら[再生する]

完全内製化してから1年弱で、生産体制強化の為、現像機2台目を導入!
ドンドン狭くなる社内で働くスタッフには申し訳ないが、会社が成長するとはこういう状況を乗り越える必要があるんだと感じた。このタイミングで、スタッフの休憩スペースを削り、社内レイアウトの見直しをし、2台目の受け入れ態勢を整えた。

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2017H.29

2016年に引き続き、2017年も、ベストベンチャー100に選出される。
2016年に、社内のレイアウトを変更し、スタッフの休憩スペースまで削って導入した、現像機2台目から1年経たずして、現像機3台目の必要性を感じるまでに成長。
オフィスの広さは限られる中で、どこに3台目を設置するか、とても悩んだ。
しかし、人間は困難に当たるとアイデアや発想の転換で乗り越えられると信じているので、頭をひねり、3台目設置エリアを絞り出し、無事、3台目の設置をすることが出来た。
しかし、今の状況で、現像機4台目の設置は本当に無理だと感じているため、新社屋の計画に動き出す。

今後も世の中に求められる会社として、人の役に立つサービスを提供し続けていきます。

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